底無し沼に落ちて

 アンティーク調で落ち着いた雰囲気の内装にはやや不釣り合いな大きなモニターからは、これまた不釣り合いなお昼のワイドショーが流れている。
 画面の左上には【イッシュチャンピオンは元英雄?その素顔とは】なんていう見出しが、小さくも目立つ色合いで並んでいた。アナウンサーが進行と同時に画面はVTRへと切り替わる。あのエキシビションの試合。丁度、緑の大蛇が纏うように空気が渦を巻いていく所だった。
 ジャローダが吠えるような気迫で対面の相手へと迫っていく。暴風がフィールドの土を巻き上げて、まるで小さな竜巻が通過していくみたいに画面に映った全ての場所を荒らす。
 砂煙で遮られていた画面はやがて晴れ、そして最後に映るのは――

「すっかり有名人ね」
「ほんとだよねえ」

 ティーセットを両手にこの屋敷の家主が戻ってきたところで、満足気に笑う男の笑顔でVTRが終わる。このエキシビションのおかげで大忙しよ!だなんて。むくれ顔でカトレアがぼやくので、私は苦笑いで再び同意の意を示した。
 断り切れなくてテレビの生放送へ出る事になってしまった。面倒くさそうな顔でそう言っていたのは二週間ほど前の事だったか。どうやら今日の事だったらしい。
 もうすっかり見慣れてしまった画面越しの彼氏を横目にカトレアからティーカップを受け取った。鮮やかで透き通った赤が目を引くそれに、ぽとりと小さな角砂糖を落とす。
 シンオウ旅行でのプロポーズから、早いもので もう半年以上が経つ。季節はすっかり巡り巡って、ここイッシュの地が初雪で真っ白に覆われたのはつい先日の事だ。
 あれから、トウヤはすっかりイッシュの有名人になってしまった。元々の英雄の肩書きチャンピオンが加わった事。なによりも、先程流れたラストの笑顔はイッシュ中にファンを増やしたらしい。今ではテレビの中で彼を見る事のが多い。
 
「ねえ。あの人、ずっとリーグにいるんだけれど」
 
 会えているのかと少しばかり心配を滲ませた目線をカトレアが寄越す。そんな彼女へ私は再び苦笑いを返す事しか出来なかった。
 昔よりは会えている方だとは思う。元々そう頻繁に会うわけでも、連絡が来ていた訳でもなかったし。
 だけど、そんなトウヤが春以降は週一で連絡を寄越すようになったのだ。なんでもないような話を数分してじゃあまた、と通話を切る。そんなこと今まであまり無かったので、しばらくは慣れなかったくらい。それでも忙しい中、私に時間を割いてくれる事が素直に嬉しかった。
 そもそも、あの男がイッシュに定住しているだけ奇跡だ。トウヤが初めてイッシュを出てもう五、六年になるけれど、何時だって彼が故郷で大人しくしていた事なんて無かったように思う。
 今では会おうと思えばこちらから会いに行ける。物理的に会うことが不可能だったあの頃の私なら、今の状況は飛び上がる程嬉しいのだろう。
 気軽に会えなかった距離は会える距離になった。連絡も沢山くれるようになった。顔が見たければテレビを付ければいつだって見れる。満足している。満足していた、夏までは。

「私ってさ、聞き分けも物分りもいい方だと思ってたの」
 
 先程淹れてもらったばかりのローズヒップティーをひとくち含み、深くため息をついた。
 ――会える距離なのに、会えない。
 夏を超えた辺りからいくら連絡が来ても満足する事なく、それ以上を望んでしまうようになった。忙しいのは分かっているつもりだ。連絡頻度が上がったのはきっと、そんな状況を少なからず負い目に感じているからなのだとも思う。そうさせてしまっている自分が少し不甲斐ない。
 こちらから訪ねることはもう何度も考えた。だけど忙しそうな彼を見るとそんな気も一瞬で消えてしまう。重荷になりたいわけではないそんなことを繰り返しているうちに、段々と会いに行く事もこちらから連絡することすらも躊躇ってしまうようになった。結局のところ行動に移せたことはこの半年で一度もない。
 直接顔が見たい。直接声が聴きたい。会いに行きたくて、会いに来て欲しい。十分でも五分でも、通話をしている時間くらいでいいから直接会って話ができたら、こんな気持ち一瞬で消えるだろうに。
 半年会わなくても全然平気だった自分が、今では半月会えないと寂しさを感じてしまう。そんな状況に言い知れぬ不安を覚えていた。自分でも分からないほど底なしに欲深くなってしまいそうで、それが少しだけ怖い。
 
「それ、そのまま彼に言えばいいじゃない」

 貴女のわがままくらい喜んで聞くと思うけど。カトレアは小さなケーキをさらに二つへと分けながらそう言った。それが出来たら今日ここでお茶会なんてしていないんだけれど。そんなことは言える訳もなく、私の口から吐き出されるのはため息だけだった。
 彼女の言うとおり、素直に会いたいと言ってしまえたらきっと楽になる。トウヤもきっと嫌な顔することなく時間を作ってくれるだろう。
 だけど欲というのはとても怖いもので、ひとつ叶えばその次を望んでしまうに違いないのだ。きっと私は、叶えば叶うほど満足ができなくなる。底なし沼へゆっくりと沈む。そんなぐらぐらとした不安が、たった四文字の言葉を喉の奥に押し込めた。
 自立していたい。依存したくない。彼が好きになってくれた私は、きっとそういう人間なのだ。
 
「あと……」
「あと?」
「……。ファンが増えたから、ちょっとだけ」
 
 彼がそんなことで天狗になるような性格で無いことはよく知っている。むしろトウヤは、ちやほやされる事を嫌うタイプだ。だけどあの笑顔で増えたファンの半数が若い女性だという事も事実であり、それは心臓の毒針を数本増やすには十分だった。
 唸るように呟いた私の言葉で、目の前の華奢な肩が小さく揺れる。思わず非難の目線を投げたが、彼女はそんなこと一ミリも気にする事も無くくすくすと笑い続けた。

「もう!最初に聞いてきたのカトレアでしょう?」
「ふふ……だってナマエからそんな事聞く日が来るとは思って無かったんだもの。トウヤがイッシュから出ていった時も、貴女そんな話しなかったじゃない?」
「だから困ってるの……!今まで我慢出来てたのに」
「ねえ、ナマエ?私ね、ずっと思っていたことがあるの」
 
 ターコイズの瞳を細め、カトレアは穏やかに続ける。
 ――貴方がもっと我儘を言えるようになればいいのに、と。