きっと単純なはずの答え

 イッシュリーグの最高峰。
 23番道路から繋がる洞窟、通称チャンピオンロードを抜けた先にそれはある。ジャイアントホールの北西に位置し、旅の集大成としてトレーナーたちが最後に行き着く険しい道。
 かつて自分も乗り越えた最後の難関。その頂点へと降り立ったのはつい十五分ほど前のことであった。
 ――たまには挑戦しに来ない?
 滅多に連絡を寄越さないトウヤが、珍しくそんなメッセージを送ってきた。話を聞けば新しい構成を試したいのだという。断る理由もなく二つ返事で予定を決めて、それが今日だった。……だというのに。

「あら、チェレンくん?」
「シキミさん、ご無沙汰しております」
 
 待てども現れない幼馴染に痺れを切らした頃、リーグの正門から見知った顔が現れた。軽く頭を下げれば、あちらからもにこりと会釈が返ってくる。

「リーグでお会いするなんて珍しいですね。あっ、もしかしてトウヤくん?」

 流石の洞察力と言うべきか、ただ自分が分かりやすく待ちぼうけていたからか。一人で結論へとたどり着いてしまった彼女に、苦笑いを返すしかなかった。

「まあ、そんなところです。……それにしても、今日はいつもより随分静かですね。こんなに人が少ないなんて、珍しい」

 目を向けた先のリーグは、普段より静かで、人の気配もまばらだ。いつもならスタッフやトレーナーたちが慌ただしく行き来しているのに、今日は妙に閑散としている。

「あぁ、それが……。トウヤくん、調子があんまり良くないみたいなんです」

 だから無理やり休みにしちゃいました。眉尻を少し下げ、困ったようにシキミさんが笑う。
 体調が悪いだなんて珍しいな。おそらくそんな考えが顔に出ていたのだろう。体調不良とかでは無いので安心してとすかさずフォローが入る。

「きっとまだ自室だと思うんだけど、呼んできましょうか?」
「いえ。この様子じゃどうせ寝てるでしょうし、自分で行きます。それより、……出かける予定だったんじゃ?」
 
 コートを着込んで見るからに外出をする姿に、予定は大丈夫なのかと促すように続ける。案の定思い出したように別れを告げて、彼女は慌ただしく去っていった。
 そんなシキミさんと入れ違うようにして、事務所の中へと足を踏み入れる。すれ違うスタッフはもうすっかり見知った仲で、軽く会釈を返しながら奥へと迷いなく進んでいく。
 ひとつ、ふたつ。そして三つ目の古びた開扉の前に立ち、ノックもそこそこにドアノブへ手をかけた。重量感のある扉を押しながら、中に居るだろう幼馴染へと声を飛ばす。が、生憎返答は無い。
 
「全く……、十中八九、こんな事だろうとは思っていたけど、さ!」

 部屋のカーテンを勢いよく開けば、薄暗い部屋の中が隅々まで明るくなる。同時に、部屋の奥からは呻くような声。呆れながら視線を向ければ、毛布に包まった何かがのそりと起き上がった。

「トウヤ、いつまで寝てるんだい」
「げ……なんでチェレンが居んだよ」
 
 呼びつけたのはお前だろう。喉の手前までそんな文句が込み上げたが、目元に刻まれた薄い影を見てしまってはそんな文句を言う気も失せてしまった。もとより生活リズムが整っていたとは微塵も思っていないけど。それでもやはり、リーグチャンピオンというのはそれなりに多忙なのだろう。

「あー……ごめん、今日だっけ。今何時?」
「十時半だよ。一体昨日は何時に寝たのさ。どうせ夜中まで調整してたんだろう?」
「んー……まあそれもあるんだけど、ちょっと」

 歯切れ悪く言い淀む様子に、先程耳にした「調子が悪いらしい」の一言が頭をよぎる。
 ――ああ、やっぱり。
 彼の中でそれが言葉になっているのかすら怪しいところだが、たぶん、話したいことがあったのだろう。それでも誰かに気づいてほしかったのだとしたら――自分が呼ばれた理由も、少しだけ分かる気がした。

「……。どうせ今日はリーグ閉めてるんだろう?待っててやるから、早く準備してきなよ」

 まずはその寝ぼけた顔を洗ってこい。未だぼんやりとしている幼馴染から毛布を剥ぎ取れば、よく寝た、だなんて欠伸を噛み殺すトウヤ。寝坊した割にはのんびりとした様子に、溜め込んでいた文句が結局こぼれ落ちたのだった。



 顔を洗い戻ってくると、部屋の窓は幼馴染により全て開け放たれた後だった。
 容赦なく吹き込む冬の外気が鞭のように体を叩く。あまりの寒さに思わず表情を歪ませれば、たまには換気しろだなんてチェレンの小言が追い討ちのように飛んできた。適当に相槌を返しつつ、ささやかな抵抗としてひとつだけ窓を閉じた。
 
「言っとくけど、砂糖も牛乳も無いからな」
「そんなものはなから期待してないよ」

 つい先程スタッフルームから拝借してきた二つのマグカップ。そこへ、目分量でコーヒーの粉末を落としていく。
 しゅうしゅうと湯気を吹く簡易ケトルは、前の家主がそのまま置いていったものだ。完全に沸騰した合図と共に、ゆっくりと注ぎ込む。数回混ぜてやれば、香ばしい熱気が鼻先をかすめていった。
 片方はチェレンへ渡し、適当な高さの台を見繕って腰を下ろす。
 
「それで?何があったのさ」
「……何が、って?」

 "何か"じゃなくて"何が"あったのかと聞いてくる辺り、あらかたこちらの心情はバレているんだろう。意味が無いなんてことは事承知の上で、それでもはぐらかすように返事を返した。
 
「調子悪いから無理やり休みにした。……って、シキミさんから聞いたけど?」
 
 呆れた視線と共に容赦なく逃げ道を塞いできたチェレン。
 マグカップへ顔を寄せ、時間を稼ぐようにゆっくりと口を付ける。先程よりも強い香りの中に、ほんの少しの酸味が鼻腔を通り抜けた。

「……。ナマエが、」
 
 一言、言葉が漏れる。だけどその先は続かなかった。
 控えめに漂う白い熱気へ、何かを探るように視線を送る。勢いの収まった湯気がマグカップからたより輪郭を捉えたかと思えば蕩けるように空へ消え、再び現れる。そんな不確かな揺らぎだった。
 それはまるで、抱え込んだ感情を明確にできずにいる自分のようだと思う。同時に、そんな不確かなものに逃げ道を求めてしまったことへ、小さなため息が漏れた。
 それを隠すようにもう一度マグカップを寄せる。手元で波打つ苦い液体なら喉の奥の不快感も、感情を覆い隠すモヤも押し流せるような気がした。だけど結局、残ったのは中途半端な苦味だけだった。

「……ナマエさんとは話したの?」
 
 先に沈黙を破ったのは痺れを切らしたチェレンだった。靄のようだった俺の言葉に無理やりにでも取っ掛りを見つけ、会話のボールをゆっくりとこちらへ返す。
 
「最近忙しくて。だから多分我慢させてた」
「我慢してたって言ったのか?」
「……いや。けどそうだろ」

 問いかけへの返事になっているのかは怪しいが、先程よりもすんなりと口から出た言葉。ぽつりぽつりと吐き出されるまとまりの無い言葉に、チェレンは咎めること無く相槌の合間に時折口を開く。
 会いたいと言われたことがなかったわけじゃない。だけど物理的な距離はどうにもできなくて、その度にナマエは笑いながら、やり場のない寂しさを何度もやり過ごしてくれていたのだろう。
 イッシュに帰ってきたのは、今度こそそんな彼女の隣に居たかったからだ。
 
「言ってくれたら、」
「会いに行く、のに?」

 いっそ、感情のままに不満をぶつけてくれたなら良かったのにと思う。そうしたら、どんなに断られようと飛んでいくのに。
 すっかり冷めてしまったそれに口を付ける気にはなれなくて、手元へと無意識に視線が落ちる。
 
「別に向こうの言葉を待つことないんじゃない?トウヤがそう思う、って事は相手も同じかもしれないだろ」
「まあ確かに……、そうだけど」
「君はどうなのさ。会いたかったのか、寂しかったのか」
「そりゃ、」

 ――会いたいに決まっている。
 言いかけた言葉が思わぬ重さに引き戻される。喉奥に引っかかった続きの代わりに、チェレンの言った先程の言葉がすっと胸の奥に落ちていった。
 靄のように不安定だった輪郭が少しずつ縁取られていくのが分かる。それを知ってか知らずか、濃紺の瞳がこちらの続きを促すように向けられた。

「その様子じゃバトルは次回に持ち越しだね」
「ごめんチェレン」
 
 こちらへ差し出された陶器を受け取りながら頭を下げる。
 
「別にいいよ。どうせ今のトウヤに勝っても面白くないだろうし」
「お前はさぁ……!傷口に塩塗り込むことないだろ」
「人を呼びつけといて寝坊したんだ。これくらいが丁度いいと思うけど」

 冗談混じりだがしっかりと痛いところを突いてくるチェレン。にこやかに笑っているものの、この幼馴染は意外と根に持つ性格だ。
 音もなく入り込んだ冷気がそっと頬を滑る。
 さっきまで鞭のように感じていたはずの冷たさが、今は不思議と柔らかい。
 そんな冬の風に背中を押されるようにして、机上に置いたままのライブキャスターへと手を伸ばした。