泥濘でなら二人で

 透き通るような冬の空気に乗せられて、ハンドベルの音が軽やかに街を駆け抜ける。街路樹にはキラキラと宝石のような装飾が施され、ホドモエの通りはすっかりクリスマスムードに染まっていた。
 家族を模したマネキン達が楽しげに食卓を囲んでいる。そんなショーウィンドウの前で足が止まる。片隅ではツリーの飾りが陽の光を鮮やかに散らし、根元はカラフルな包みで隠れてしまうほどに溢れていた。
 どこから見ても心が踊るようなディスプレイ。そんな祝祭を謳う光景の端で、立ち止まり俯く自分が写り込む。私の心は未だ酷いぬかるみに沈んだままで、ガラス越しに覗く顔は幸せとは程遠かった。
 そんな暖かな団欒から目を背けるように首元のマフラーをきゅっと巻き直す。気分転換のつもりで家を出たけれど、あまりいい案では無かったかもしれない。頬を撫でた北風に、身を竦めながらそう思った。
 あの夜から、もう一週間ほどが経つだろうか。トウヤとのメッセージルームは沈黙を破ることなく静かなままだ。通知が鳴るはずもないのに、癖のように何度も気にしてしまって情けない。私から連絡する勇気はまだ無くて、けれど彼から連絡が来るとも到底思えなかった。
 ――あんな顔、久しぶりに見たな。
 何も言わずイッシュを離れた、数年前のトウヤと同じ顔。皮肉にも今回そうさせたのは私自身の言葉だった。
 彼が私だけのものじゃなくなっていくみたいで、どうしようもなく怖かった。誰より近くに居たかっただけなのにままならなくて。結局一番見せたくない醜さを、一番言ってはいけない言葉でぶつけてしまった。
 私の言い訳を遮るように言葉を絞り出したトウヤの声は、ほんの少しだけ震えていたように思う。それでも彼は、努めて冷静に"頭を冷やす"と通話を切った。私はなんにも言えなかったのに。
 
「……、駄目だなぁ」

 沈んでいく気持ちを無理やりにでも持ち上げて、お気に入りのショップへと足を伸ばす。流し目で店内を周り、気になった中からひとつを手に取り、そっと体へ当ててみた。
 鏡の奥でコーデュロイのロングスカートが重たげに揺れる。肌なじみの良いアイボリーが目に留まったものの、鏡の中の自分には不釣り合いなほど眩しく見えた。
 そんな気分になれるわけ無いと言いたげに、写し身がこちらを覗き返す。突き放すような視線に苦い溜息が零れ落ちる。
 分かっている。あの日から止まったままの沈黙は、自分から破らなければいけないことくらい。
 重荷になりたくないと、口にする前から勝手に蓋をして。気が付けば、彼を画面越しにしか見られなくなっていたのだろう。テレビの先にいる手の届かない存在。誰よりも近くに居たかったはずが、遠ざけていたのは自分だった。
 喉の奥に言葉にならなかった想いがひっかかる。素直に言えず苦しくてどうしようも無い感情が、胸の奥でじんじんと熱を帯びた。
 ぼやける視界を瞬きで誤魔化して足早に店を出た。行く宛なんて無いくせに帰る気にもなれず、どんよりと重い足取りで街を歩く。
 小さな子供を肩車する父親の姿や、寄り添って歩く恋人たちの笑顔が視界の端をすり抜ける。行き交う人々の笑い声がひどく遠く感じ、その中でひとり自分だけが別の季節に取り残されているみたいだった。
 そんな強張った呼吸をひとつ吐き出したその瞬間、街角の大型スクリーンから見知った姿が目に飛び込んでくる。それは今シーズンのWPTのリプレイで、よく知る顔が知らない表情でモニターに映し出された。
 多分、もうバトルの終盤。土煙の隙間から覗くブラウンの眼差しが、鋭く相手を射抜いている。サザンドラは唸るように吼え、相手のポケモンはゆっくりと地面に伏せた。そして――
 
「……、楽しそうに笑うなぁ」

 試合が終わりトウヤの勝利をアナウンサーが読み上げる。スクリーンの中では、無防備な笑顔が三つ又の頭とじゃれていた。先ほどまでの緊張感なんて微塵も感じられない、あの慈愛に満ちた笑顔。テレビの中で、私が唯一よく知るトウヤだった。
 あの顔を引き出せるのは、彼のポケモンたちと、――きっと私だけ。不思議とそれだけは自信が持てる。
 長い間胸を締めつけていたものがすんなりと溶けていく。私はいつも気付くのが遅い。
 届かないのならば、その分だけ手を伸ばせば良かったのだ。シンオウでトウヤが私にしたように、こんな隙間は存外簡単に埋まるのだから。
 自然とライブキャスターに手が伸びる。しばらく動きの無かったトークルームを開き、ためらいながらも通話のアイコンへ指を落とす。
 画面の明滅に合わせるように胸の奥が小さく波打つのが分かる。期待と不安のせめぎ合いで息が詰まりそうだった。けれどそれ以上に、早く声を聞きたいという想いが背中を押す。

「ナマエ?」
「……えっと、久しぶり」
 
 不意に切り替わる画面の奥で、トウヤがわずかに目を見開いた。心臓が跳ねるのと同時にぎこちなく返事をすれば、すぐに朗らかな笑顔へ変わる。

「突然かけてごめんなさい」
「いや、別にいいよ。俺もかけようとしてたから驚いたけど」

 だからびっくりしたと笑う顔はどこか嬉しそうで、そこに彼の気持ちを疑う隙なんて1ミリもなかった。
 迷いは消えた。今度は私が手を伸ばす番だ。
 息苦しさはもう感じなかった。