なにもかも差し出したあと

 昼下がり。ひとり小さな液晶を睨みつけて、どのくらいの時間が経っただろうか。
 画面に並ぶ言葉の列をなぞるように目で追った。なんでもない簡単な挨拶から始まるメッセージは、中途半端に途切れたままだ。その先に続けるべき言葉は分かっているのに、指先は鉛のように重く動こうとしない。
 橋の開閉を知らせる警笛が冬の空気を小気味よく震わせる。釣られるようにライブキャスターから目を離せば、じとりとした赤い瞳がこちらを見上げていた。
 いつからいたのか。ジャローダの責めるような視線の圧に、居心地の悪さを感じ目を逸らす。とはいえ、他に目のやり場の心当たりがあるわけも無く、結局元の画面へと目を落とすしか無かった。
 小さく吐いた息が白い煙となって冬の空気に溶ける。コーヒーの湯気のように揺らいだそれは、縁取ったはずの輪郭を再びぼかしていった。
 これ以上、ナマエが我慢する必要はないと思った。自分の前でだけは平気なふりをしてほしくなくて、心のどこかで、ああ言えば彼女が折れると思った自分がいた。素直に言える性格じゃないことはよく知っていたし、きっかけになればいいと思ったのだ。

「けど、……あの言い方はまずかったよな」

 足元の相棒へ独り言のようなぼやきを投げる。返事はない。けれどきっと、彼女は呆れたように尾の先端を揺らしているのだろう。
 何度目かのため息を吐き出したとき、不意に着信音が鳴り響く。ライブキャスターに表示されているのは思い浮かべていた彼女の名前で、意識せずとも鼓動が重く跳ねた。
 言葉を誤ればきっとまた、ナマエは気持ちに蓋をするだろう。それでは同じ事を繰り返すだけじゃないか。そんな予感だけが鮮明に残り、指先の動きをピタリと止めてしまった。

「……あ!こら!」

 そんな迷いを断ち切るように、ジャローダの尾がどつくように腕を押した。その反動でぶれた指先が応答ボタンに触れてしまう。
 堪らず睨むような視線を足元へ落とすが、そんなことお構いなしに、彼女はボールの中へと戻ってしまった。
 待機画面が見慣れた顔を映し出す。久しぶりに見た彼女の顔は思いのほか真剣で、思わず息を呑んだ。伝わる緊張感に耐えきれそうになくて苦し紛れに口角を上げると、釣られるようにナマエの口元も緩んでいった。
 彼女の笑顔に反応するように、乱れていた呼吸がふっと整っていく。全身で脈打っていた低い音が少しずつ落ち着き始めた頃、スピーカーの奥に響く軽やかなハンドベルへと耳を澄ます。
 久しぶりに見た彼女の笑顔には、あの日の面影は何処にもなかった。あんなに背負い込んでいた肩の荷は、もうすっかり下ろしてしまったらしい。
 そんな所に彼女の強さを垣間見て、不思議と心の奥の靄が晴れる。不確かだった輪郭はくっきりと形取られていた。
 思い返せば、こういう時先に連絡を入れてくれるのはいつもナマエの方だった。この笑顔の裏に、一体どれだけの我慢を強いてきたのだろう。
 短い警笛が再び空気を震わせる。一つはすぐそこで、もう一つはスピーカーの奥で低い音を響かせた。
 重なる音を合図にカタリとボールが揺れる。
 背中を押されるように踏み出した一歩に、もう迷いはない。

 
 ***

 
「本当はね、ずっと寂しかったよ」

 想像より澄んだ声が耳に残る。
 震えのない音は安心感となり波紋のように広がった。
 テレビでは毎日見かけるのに、その度に寂しさは膨れていった。会えるはずの距離をとても遠く感じた。画面越しに見た事のない彼を見る度、私の記憶はどんどん霞んでいった。それがとても怖かった。
 会いたいと言い出すことも出来ず、そんな気持ちは溜め込むことが正解なんだと言い聞かせた。だってトウヤは英雄でチャンピオンで、イッシュ中に必要とされている。そんな我儘許されない。そう思い込ませるように気持ちに蓋をした。
 気付いたらトウヤの背中には大きな肩書きが乗っていて、きっと私は、その隣に立つ覚悟が出来ていなかったんだと思う。私だけは肩書きのない彼を見続けなくてはいけない。だから、画面越しにトウヤを遠ざけた。
 英雄にならざるを得なかった過去も、チャンピオンとして頂点に立つことを決めた今も、全部ひっくるめて彼だったのに。
 
「私もう逃げないよ。トウヤが英雄でもチャンピオンでも、……ちゃんと隣にいたいの」

 封じ込めていた寂しさや恋しさが波のように込み上げる。迷いなんてないはずなのに声が詰まり、それでも押し込んだ気持ちが一気に飛び出してしまわないようゆっくりと言葉を綴る。

「もっと会いたいよ、トウヤ。これからは私も会いに行くから、だから」
「――やっと言った」
 
 言いかけた言葉を遮るように声が響く。
 スピーカー越しじゃない。まるでそこに居るみたいにクリアに鼓膜を揺らす音。ホドモエに居るはずのない声に心臓が小さく弾む。
 引かれるように振り向けば、その姿はすぐに見つかった。喧騒に紛れる事なく、茶色い瞳は真っ直ぐに私を見つめている。

「まぁ、……思ってたのとちょっと違ったけど」
 
 くすくすと肩を揺らす姿から目が離せない。当然、声なんてもっと出ない。出るわけがなかった。
 だけどそんなこと気にもとめず、トウヤは言葉を続けていく。
 
「会いたいじゃなくて会いに行く、ってとこがナマエらしいよな」
「なんで、」

 ようやく音になったそれを掻き消すように、人混みの向こうで誰かの声が高くなる。一人がこちらを指さし彼の名前を呼ぶと、ざわめきが一段深くなった。

「やべ……」
 
 ざっと人波を測りながらトウヤは小さく呟いた。次の瞬間、毛糸の温度が頭を半分隠すように包み込んだ。
 微かな洗剤の匂いを運ぶマフラーで、視界がほんの少し狭くなる。空気と一緒に安心と緊張で胸が満たされていった。
 
「走れる?」

 小さく頷けば、フードの奥で茶色い瞳が短く笑った。人混みから攫うように手を引かれ、流れる視界に白い息が途切れていく。
 都合のいい夢でも見ているかのようだった。クリスマスの飾りが視界の端でキラキラと反射して、その景色の中心にはトウヤが居る。浮き足立つ足元を手首に伝わる彼の体温だけが繋ぎ止めた。
 
 どのくらい歩いただろうか。
 ふと顔を上げれば、見慣れた住宅が並んでいた。
 賑やかな街を抜け出した後、いくつか角を曲がった事は覚えている。闇雲に歩き回っていたようで、自宅までの道を遠回りに辿っていたらしい。
 キーケースに付いた複数の鍵の中から、迷うことなくトウヤがひとつ選ぶ。あまり使われることのない合鍵で扉を開けると、私を部屋へと押し込んだ。
 冬の気配を閉ざすように扉が閉まる。鍵の回る音だけが薄暗い玄関に響き、そこでようやく小さく息を吐いた。

「雪だるまみたいになってる」
「自分が巻いたんじゃない」

 小さく笑いながらトウヤがマフラーをひと巻きずつ解いていく。毛糸が首筋を離れるたび冷えた空気が薄く触れた。
 そっと、見上げるようにトウヤの顔を覗き見る。影の奥にアーモンドの瞳を探すが薄暗くてよく見えない。せっかく手が届くのに。

「?どうした」
 
 無意識に伸びた手がフードを下ろす。茶髪が跳ねたのと同時に、瞬くようにトウヤが目を見開いた。ずっと触れたかった体温に擦り寄るように顔を寄せる。
 冷えた唇を掠めるように背を伸ばす。軽く触れ、そのまま倒れるように体を預け顔を埋めた。

「……会いたかった」
 
 絞り出すような声が薄闇に溶ける。あんなに言えなかった一言が波のように押し寄せて、それが全部伝わればいいのにと額を押し付けた。

「ナマエさ。……えっと、」

 私のより少しだけ早く脈打つ心臓の音の合間に、珍しくハッキリとしない口ぶりが続く。静かに耳を澄ませていれば、トウヤはようやく何かを決心したように口を開いた。
 
「家、探しに行かない?」
「……家?」
 
 そう、家。彼の言葉をペラップのように復唱すれば、トウヤも同じように返してきた。
 唐突な提案の意味を噛み砕けずに、視線が宙を泳ぐ。そんな私を見て、トウヤは付け加えるように頷いた。

「一緒に住む、ってこと?」
「俺は多少リーグから遠くなっても問題ないし、……もちろん、ナマエが良ければだけど」

 返事を促すように茶色の毛先がさらりと落ちる。隙間から覗き見たブラウンの瞳は、やわらかな笑みを灯していた。