月も朝日も君の隣で

「だいぶ片付いたな」

 よいせ、と小さな掛け声と共に、トウヤが段ボールをひとつ持ち上げる。側面に「雑貨」と大きく書かれたそれを、壁沿いに積み上げた山の上へと軽々と移動させた。

「ごめんね。忙しいのに」
「別にいーよ。それに、こうでもしなきゃいつまで経っても引越してこなかっただろうし」

 すっかり片付いてしまったワンルームを見渡しながらトウヤが笑う。揶揄うような、けれどその裏には小さな不満が透けて見えて、咄嗟に浮かんだ反論は呆気なく喉の奥へと消えてしまった。
 あの日、トウヤから切り出された同棲の話はトントン拍子に進んでいった。お互いの両親への報告を済ませ、住む家を探して。リーグの繁忙期が一段落しているうちに、なんて理由も一役買って、あっという間にソウリュウへ引っ越す段取りが組まれていった。
 とはいえ、転居経験の少ない私が長年住んだこの家を身軽に出て行けるわけもなく……。本当なら先週には移り住んでいるはずだったけれど、結局荷造りが間に合わなかった。今はひと足先にトウヤだけが住んでいて、来週には私もこの家を出て新居へと移り住む予定だ。
 カーテン越しの冬の光が何もない床に伸びている。つい先日まで、あの場所には姿見が置いてあった。その隣には化粧台。一人暮らしを始めた時に買ったチェストは、先日粗大ゴミへ出してしまった。
 ベットと少しの洋服に食器類。最低限、数日生活ができればいい程度の物を残した部屋が、急に他所他所しさを滲ませる。
 私の居場所だった。帰ってきて、靴を脱いで、コートを掛けて。特別なことなんて何も無い。当たり前の毎日を積み重ねた場所の見慣れない姿を眺めていると、少しだけ胸の奥が締め付けられるようだった。
 
「寂しくなった?」

 どうして、と振り返れば、トウヤは困ったように眉を下げた。短い沈黙の中で言葉を選んでいたようだが、結局見つからなかったらしい。短く唸り、そのまま再び静かになってしまった。そんなトウヤの様子でなんとなく彼の言わなかった事が分かってしまい、それがまた胸の奥をきゅうと締め付ける。
 寂しくないと言えば嘘だ。けれど、こちらを覗き込むトウヤの表情が珍しく少し不安げで、それがどうしようもなく愛しかった。

「もしかして、……私が全然引っ越して来ないから不安だった?」
「……。どーだか」

 少しだけ考えてから出来心で茶化してみると、今度はむくれたような声色が返ってくる。そんな反応を見て、図星だったことを確信した。
 逸らされた目線を追いかけるように覗き込むと、複雑そうな顔のしかめっ面と目が合った。漫画でよくある、むす、なんて効果音が良く似合う顔。

「もう。そんな顔しないでよ」
 
 トウヤがたまに見せる子供みたいな顔が好きだ。普段の姿からは想像も付かないほど可愛くて、――これもきっと、私にしか見れない顔。そう思うとなんでも許してしまいそうになる。
 今度は逃げられないように、頬を両手で挟み込みもう一度顔を覗き込んだ。トウヤはばつが悪そうな渋い表情のまま、視線だけを泳がせる。
 
「こっち見てよ」
「やだ」
 
 本当に子供みたい。吹き出しそうになるのを堪えていると、にやにやすんなよと棘のある声に窘められた。

「だって、子供みたいだなって……!ふっ、あはは」

 恨めしそうな視線に申し訳なさを感じつつ、けれど耐えきれずに肩が揺れる。

「笑いすぎ」

 ふいに手首を掴まれた。もう片方の腕がするりと腰へ回り、そのまま体が引き寄せられる。申し訳程度に空いていた隙間はあっさりと埋められて、当たり前のように近付いてきた顔を拒む間も無く受け入れた。
 ほんの一瞬、唇が軽く触れた。離れた距離の中で、見上げた先の焦茶色の瞳に不敵さが滲む。さっきまであんなに可愛いかったくせに。主導権を奪われてしまった事が悔しくて、落ちてきた影に今度はこちらから近付いてみた。
 先程と同じリズムで離れていく温度を逃がすまいと追いかける。爪先を立て、彼の首へ腕を回し、まだ離れたくないと強請るように。触れた瞬間、ほんの僅かに吐息が漏れる。そんな一瞬ですら離れ難くて、隙間を埋めるようにもう一度顔を寄せた。
 さっきまでの拗ねた声も、曖昧に濁された言葉も、その奥に隠されてしまったものも。全部を埋められたら、この人はこれ以上不安にならないだろうか。そうあればいいなと思う。
 いつかのお返しのつもりで、最後に軽く下唇へ歯を立てて、ゆっくりと体を離す。

「っ、お前な……」
「ね、まだ心配?」
「……。別に心配なんてしてないけど、」
「けど?」
「ちょっと強引だったかな……とは思ってるよ」
 
 冷静を取り繕うようにトウヤが深く息を吐く。けれど口の端は不敵に吊り上がっていて、貼り付けたような苦笑いは少しずつ綻びを見せていた。熱に浮かされ揺れる瞳を、狙うように覗き込んだ。

「もっかいする?」
「どこでそんなの覚えてくるんだよ」

 トウヤの親指が下唇を優しく撫でる。いつもはひんやりとしている指先が今は少し熱っぽくて、お互いの境界なんてすぐにあやふやになってしまった。返された声色には先程の不機嫌さは一欠片も感じなくて、代わりにすっかり火の付いた瞳が私の視線を絡めとる。

「煽ったのナマエだからな」
 
 緩く回されていた腕に今度は迷いなく引き寄せられる。何かを確かめるように重なった唇は、少しだけ強引で、それでもどこか優しかった。