「本当に平気?」
後ろの机へ除き込むような視線を向けながら、カトレアの眉間に怪訝そうなシワが寄る。背中の裏にはノートの山がふたつ積み上げられていた。
「やっぱり運ぶのだけでも手伝うわ」
「大丈夫だって。それにまだ教室でやること残ってるからさ」
「そんな事言ったって、」
硝子のように透き通る青い視線が手元の学級日誌へと落ちる。まだあまり埋まっていない項目の欠席者の欄を指さしながら、彼女は続けて口を開いた。
「あなたしか居ないじゃない。今日の日直」
「風邪なんだって。心配だよね」
「もう! そうじゃないのよ」
「分かってるよ、心配してくれてありがと」
少しむくれた様子の友人へ、このくらいは余裕だからと笑ってみせる。別に今回が初めての日直って訳でもないし、時間はかかるだろうがそう困ることが無いのも事実だ。それでも彼女の口は不服そうにへの字に下がったままだった。
「大変だったら誰かに手伝ってもらいなさいね?」
「カトレアって意外と面倒見いいよね、っと……なんでもないでーす。それより、ほら。早く行かないと遅刻しちゃうよ?」
幼さの残る目尻がきりっと細くなったところで、慌てて後ろの時計へと視線を逸らす。今教室を出れば、多分カトレアはぎりぎり部活に間に合うはず。当の本人からは煮え切らない様子をひしひしと感じるが、これ以上私に付き合わせるのも忍びない。
「……、分かったから。そんなに心配しなくても大変だったら先生呼ぶよ」
その一言でようやく納得してくれたらしい。また明日ね、と控えめに手を振り教室を出る姿を見送った。
学級日誌を半分ほど埋めた辺りで、休憩のつもりで窓の外へと視線を移す。
――あ、この声。
廊下からだろうか。遠くから反響する楽しげな声が耳に止まる。内容までは聞き取れないものの、声の主が誰なのかはすぐに見当が付いた。
聞き慣れたはずの笑い声は少しだけ低く鼓膜を揺らす。トウヤの声だって分かっているのに、どこか別人のようだった。
「……遠いなぁ」
窓の外に視線を溶かし、耳だけで声を追う。
静かな教室に独り言は溶けて消えた。
どれほどぼんやりと、外を眺めていただろうか。廊下はすっかり静かになっていて、代わりに窓の外から運動部員のランニングの掛け声が飛び込んでくる。
意識を手元へと戻し、時間割を思い浮かべながら学級日誌を埋めていく。
「えっと……。三限は情報で、その後が――」
「数1だろ」
誰もいないはずの教室に先程まで廊下に居た声が頭上から落ちてくる。びっくりして顔を上げると、私の手元を見慣れた茶髪が覗き込んでいた。その距離は思っていたよりも近く、久しぶりの距離感に少しだけ動揺してしまう。
「えっ? あっ、ちょっと」
「だから四限目。数1だったろ」
「そうじゃなくて、なんでいるの?」
「声掛けたけど気付かなかったのナマエじゃん」
トウヤが呆れた様子でため息をこぼす。忘れ物を取りに来たら私がいたのだと続け、そのまま目の前の席へと落ち着いてしまった。
「あー……そっか。お前今日ぼっち当番だったな」
「なんか腹立つなぁ、その言い方」
軽く睨みつけると、トウヤはいつも通りどうでもよさそうに肩をすくめた。
ほんと変わらない。その態度も、言い方も、私を揶揄う時の表情も。こんなふうに言い返してくだらないやり取りをしている時間が、どうしようもなく心地いい。
こんな些細な会話だけで、勝手に遠く感じていた幼馴染との距離が少しだけ元に戻った気がした。なんでもないほんの少しの時間も嬉しくて、楽しかった。
――だけど、そう思っているのは私だけ。
このままだとまた離れてしまう。そう思った途端、胸の奥が少しだけざわついた。
「なんかさ、久しぶりだよね。二人で話すの」
「そう? 別に話してるだろ」
「そうだよ。高校入ってから……席、遠くなっちゃったし」
私の一言を最後に会話が止まる。先程のテンポで返って来ない返事を不思議に思い、日誌から少しだけ顔を上げれば、ぽかんと面食らったような珍しい顔のトウヤと目が合った。
しまった、と思った。久しぶりで少し舞い上がっていたのかもしれない。こんなの、ずっと話したかったと言っているようなものだ。
急に怖くなって、出してしまった言葉から目を逸らすように再び日誌へと向き直る。
四限が数1で、お昼を食べて。五限目ってなんだっけ?なんて。我ながら苦しいと思いつつも、少しでも話題を変えたくて、わざとトウヤに投げかける。幸いにも、彼はさほど気にする事なく話を進めてくれた。
「……午後は体育と美術。あと何が残ってんの? それ以外で」
「あと? えっと……、黒板消して明日の時間割書いて、それから戸締りくらいかな?」
「あれは?」
「ノートは職員室に持ってくやつ」
「ん。りょーかい」
促されるままに残りの仕事を簡潔にあげていく。最後まで聞いていたかと思えば、彼はおもむろに立ち上がり黒板消しを手に取った。
「了解って、トウヤ忘れ物取りに来ただけじゃないの?」
「そうだよ」
「ならなんで」
「一人より二人のが早いだろ」
「……別に頼んでないし」
「そんなに気になるなら、さっさと終わらせて解放してよ」
そう言って幼馴染が振り返る。
細められた綺麗なアーモンド形と目が合った。いつもの皮肉めいた笑みじゃない。たまに見せる、穏やかで優しい表情だ。
脈拍が不規則に乱れていくのを感じながらも、目が離せなくなった。
――このままずっと、隣に居られたらいいのに。
そこでふと、先日の質問の答えはこんな事でよかったのかもしれないと気付く。
付き合いたいとか、特別になりたいとか。ベルが求めていた答えとは少し違うのかもしれない。だけど、自分の気持ちが初めて確かな輪郭を持ち、ストンと胸の奥へ落ちていった。
名前も付けられないまま抱えていた感情が、胸の奥でようやく小さな蕾を付け始める。それに気付かないフリをして、私は日誌の続きを埋めるのだった。