朝から強かった陽射しは、まだ昼前だというのにじりじりとアスファルトを焼いている。住宅街には蝉の鳴き声が途切れることなく響いていて、 それが余計に暑さを煽っている気がした。
そんな灼熱の夏の日差しに照らされながら、ここへ来て三度目の深呼吸で心拍を整える。残念ながら心臓はちっとも落ち着いてくれなかった。
見慣れたはずの幼馴染の家のインターホンを前に、意味もなく前髪を整えてみたり、スカートの付いてもいない皺を伸ばしてみる。押すだけでこんなに緊張しているのは人生で初めてかもしれない。
「いつまでそうしてんだよ」
「わあ!」
よし押すぞ、と決意してインターホンへ指を伸ばした時だった。上の方から小さな笑い声が落ちてくる。恐る恐る顔を上げれば、トウヤが自室の窓からひらひらと手を振っていた。
「いつから見てたの……!」
「二回くらい深呼吸してるあたりから」
それってほぼ全部じゃない! そう叫びそうになった言葉をぐっと飲み込んで、貼り付けた笑顔で手を振り返す。
玄関開いてるからと言い残し、トウヤは窓の中へと引っ込んでしまった。勝手に上がってこいと言う事らしい。
お邪魔します、と小さく呟きながら玄関をくぐる。いつもならおばさんが出迎えてくれるはずの彼の家は、しん、と静まり返っていた。
階段を下りてくる足音に、思わず背筋が伸びる。数秒後、ラフな部屋着姿のトウヤが気怠そうに階段を下りてきた。
「おはよ。お茶でいい?」
まあお茶しかねーけど。なんて笑う声はあまりにも普段通りで、張り詰めていた緊張が少しだけ緩んでいく。そうだ。勉強しに来ただけなんだから、変に意識する必要なんてない。
「うん、ありがとう。おばさんたちは?」
「買い物行った。部屋クーラー付けてあるから、先上がってて」
台所へ引っ込んでいく後ろ姿を見送りながら、言われた通りに階段を上がる。久しぶりに上がる二階は、記憶の中より少しだけ静かに感じる。
最後に来たの何年前だろう。懐かしさのような、なんとも言えない不思議な感情が湧き上がる。少なくとも、中学に上がってからは部屋まで上がり込むことも、めっきり減ってしまった。子供の頃よく遊びに来ていたからか、部屋の場所だけはしっかり覚えているのも変な感じだ。
「お邪魔します……」
部屋の主が不在なのは分かっているが、独り言のように小さく呟きドアを開ける。
久々に見た幼馴染の部屋は、物が減りスッキリとした印象だった。記憶の中より、ずっと大人びて見える。
漫画ばかりが詰まっていた小さな本棚はすっかり背が高くなっていて、その半数が参考書や小説で埋め尽くされていた。
「適当に座ればいいのに」
「なんか、どこ座ればいいか分かんなくて」
「なんだそれ」
戻って来たトウヤがくすくすと小さく笑う。グラスを受け取り、とりあえず勧められた場所に体を落ち着かせた。
静かな部屋に、クーラーの微かな駆動音だけが流れている。いつもなら誰かしら居るはずなのに、今日は妙に静かだ。
――ほんとに、二人なんだ。
そう思った瞬間、さっきベルと電話した時の事を思い出す。なんでトウヤは声をかけなかったんだろう。ふっと芽生えた出来心に流されるまま、私は何でもないふりをして口を開いた。
「そういえば、……チェレンたちは?」
この質問に彼はなんて返してくるのだろう。最初から二人でやるつもりだったのか。ただ、忘れていただけ? それとも、――その先を都合良く期待するほど、私は前向きにはなれなかった。
トウヤの顔を見ることは出来なかったけれど、一瞬、彼の空気が変わった気がしたのは気のせいだろうか。
「あー……、来れないってさ」
「そっか、残念」
肝心な部分だけを器用に隠すみたいに、トウヤはそれ以上何も言わなかった。曖昧な返事だと思った。同時に、否定してくれたならこんな苦しい思いをしなくて済んだのに、とも思った。
――もしかしてなんて、考えたくないのに。
胸の奥へ仕舞い込んだはずの小さな蕾がじんわりと色付いていく。不透明なはずのトウヤの気持ちを都合よく受け取り、浮かれている自分がいる。どうしようもなく単純で、恥ずかしくなる。
それでも一度芽吹いてしまった期待は、簡単には引き抜けない。もし今ここで、どうして誤魔化したの?と可愛く尋ねられたなら、何かが変わるのだろうか。
出来もしない考えを打ち消すようにグラスへ口をつける。冷たいはずのお茶は、妙にぬるく感じた。
”唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ”
長く連れ添った妻を残し旅に出たものの、その旅路はとても寂しく辛いものだった。ザラザラとした紙にペン先を押し付けながら、現代語訳を頭の片隅に思い出す。
都に残した大切な人を思い浮かべながら、旅先で詠んだ歌なんだとか。寂しいなら最初から連れていけば良かったのに。初めて聞いた授業中、そんな感想をうっすらと思い浮かべたのは記憶に新しい。まあ、こんな自己解釈を書き連ねる解答欄なんてないんだけども。
全ての空欄を埋め終わり、手持ち無沙汰なまま顔を上げる。正面では幼馴染がしかめっ面で数式を解いていた。時間を潰すように、ノートへ落ちる真剣な横顔をぼんやりと盗み見る。
分からないなりに自分で解こうとしているらしい。途中で何度か手が止まりその度に唸るような声が聞こえてくるが、助けを求めてくる頻度は随分減ったように思う。数時間前までは数式を見ただけで目を白黒させていたくせに。そう思うと少し可笑しくなって、無意識に息が揺れた。
「解けた、かも……?」
やや不安げな呟きを溢しナマエの手が止まる。手元の答案を少しだけ眺めたあと、観念したようにおそるおそるノートを差し出してきた。受け取る前に手応えを尋ねてみれば、彼女の眉は困ったようにハの字に下がり、一泊おいて誤魔化すように視線が逸れていく。
「そういうトウヤは? 教えてって言う割には余裕そうだったけど」
「俺? まあ、そこそこ……って感じ?」
少しだけ軽口を交え、お互いに赤ペンへと持ち替えた。室内にはペン先が紙を滑る音だけが流れていく。
ナマエの答案に上から順に辿っていく。今しがた見せた弱気な反応とは裏腹に、彼女の答案は案外しっかりと埋まっていた。先日の小テストのことを思えば正解率も確実に上がっているようだった。
綺麗に書き連ねられた途中式へ目を通す。うろ覚えで使っていた公式は、もうほとんどが頭に入ったらしい。残る気がかりは小さなケアレスミスだけだけど、こちらも心配するまでもなくすぐ減っていくだろう。
素直に感心していると、向かい側から落ち着かない気配が漂ってきた。丸が付けば分かりやすく顔が緩み、逆にバツが付けば分かりやすく肩が落ちる。
――最優先課題は自信を付ける事、だな。
ころころと変わるナマエの表情に、小さなため息がひとつこぼれていく。本人的にはそっちのが難しそうだけど。百面相でもしているような様子に苦笑いしながら、最後の問いをぐるりと円で囲った。
「ほら。案外出来たんじゃない?」
「ほんと?」
八割とれてるし上出来だろ。そう付け加えながらノートを返す。半信半疑で浮かない表情を浮かべていた顔は、右上の点数を目にした途端、花が咲いたように緩んでいく。
「すごい! こんなに解けてるなんて思ってなかった……!」
「そんな嬉しい?」
「嬉しいよ。だって、トウヤに教えてもらったし」
「……、あっそ」
まるで肩の荷が抜けたみたいにふにゃりとナマエが笑う。笑顔なんてこれまで何回も見た事がある。それなのに、あまりにも無防備に顔を緩ませた幼馴染に、不意に、いつもの調子で言葉が出なくなった。
今だけじゃない。思えば、彼女が家に来た時から妙に落ち着かなかった。そんな違和感を振り払うみたいに、一言素っ気ない返事を返す。
「あ、てかさ。トウヤほんとに古文苦手なの?」
絶対嘘でしょと怪訝な顔を浮かべる彼女からノートを受け取り目を落とす。右上には3桁の数字と、すごい! というコメントの添えられたゆるキャラみたいな花丸スマイルが書き込まれていた。
「なんだこれ」
「満点だったし、頑張りましたで賞……みたいな?」
彼女は可愛いでしょと笑い、話を続けていく。
「この歌さ、置いていかれた奥さんはどう思ったんだろうね」
「置いてかれた側?」
「上手く言えないけど……昔はきっと、今より自由じゃなくて、」
――それでも本当は、ずっとそばに居たかったんじゃないかなあ。
まるで自分が置いていかれてしまったような口ぶりで、そう独り言のように呟いた。
「なんてね……、トウヤ?」
「俺なら、」
何故だか、繋ぎ止めておかなくちゃいけない気がした。そうしないと、すぐにでも消えてしまいそうなほど儚く見えた。
だけどどうすればいいのかなんて分からなくて、咄嗟に開いた口が今度は無意識に動き出す。
「俺だったら、置いてかないけどな」
「え?」
「だってそうだろ。離れてから寂しいだとか会いたいだとか。そんなに大事なら最初から連れてきゃ良かったんだよ」
「だから、それが出来ない時代だったって話じゃん」
「んなもん知らねーよ」
反射のように言葉を遮った。
「俺なら、……俺は置いてかない」
「何、急に。なんか変だよ」
「変なのはナマエだろ」
静かな部屋に自分の声だけが響いている。
「お前があんな、――置いていかれたみたいな顔するから」
そこまで言って、ふと顔をあげる。
ぽかんと口を開けたままの幼馴染と目が合った。
「え、と」
耳まで真っ赤になった顔。視線を泳がせながら、何かを言おうとした口元がきゅ、と閉じられる。数秒遅れて、自分の言った言葉を頭の中で反復する。
「あ、わ……私、帰る!」
「は? あ、ちょっ、」
指先が宙をかく。引き止める声は彼女に届くことはなく、部屋に寂しく残された。