スローステップ
「だっさあ」
「……聞こえてるんですけど」
これは私とマサキが交わした初めての会話だ。
確か六年前。私が学校の階段を踏み外して盛大にずっこけた瞬間を、運悪くも見られてしまったのが全ての始まりだった。優しい人なら大丈夫?くらい言いそうな人の不幸を、当然のように笑ってきたのが狩屋マサキだ。一応鈍臭すぎるでしょ、とかなんとか言いながらも助けてくれたけれど、そんなことをされても当然第一印象は最悪である。
けれども人の縁とは奇妙なもので、これがきっかけで校内で見かけた時は一言二言の軽口を叩くような変な仲になった。友達と顔見知りの中間のような、名前も学年も知らない失礼な男子。そんな男の学年と名前は、二ヶ月経った頃にひょんなことからようやく知ることとなる。
ちなみにこいつが隣のクラスの同学年だったと知った時には、なんで気付かないんだよ……と呆れられてしまったのをよく覚えている。マサキは私の事を知っていたみたいで、悔しく思ったのは秘密だ。
せめて学年くらい気付けよと言われたけれど、うちの学校、学ランとセーラーで学年がすぐ分かりにくいから仕方がない。私からすれば、こいつがなんで気付けたのかの方が不思議でしょうがない。
学年と名前が分かった所で、遠慮なく暴言に暴言を返せるようになったのもこの時期だ。こんなぐだぐだな私たちの出会いは、高校2年の夏休み直前の事だった。
「おっせえよ」
「ごめん、仕事が終んなくて!っていうか、あんたいつもはもっと遅いじゃない」
あれからというものの、マサキとは同じ大学の同じ学部へ進み、社会人になった今でも時々飲みに行くような関係へとゆっくりとランクアップしている。我ながら奇妙な腐れ縁だなと思うが、こいつと飲みに行くのは別に嫌いではない。
私は無事に就職し、マサキは大学バイト生活の延長のようにフリーターをして自由気ままな生活をしていた。そのせいで月末にごはんをたかられる事もしばしばだが、三回に一回は競馬で丸儲けしたからと三倍ほどにして返してくれるのでまあいいかと思っている。
高校時代では結局同じクラスにならなかったし、特別仲がいいわけでもないただの顔見知りだったのに。たまに、一緒に屋上で授業をさぼったりお昼ご飯を食べたりはしたけれども、たまたま私が居るところにマサキがいただけの話である。
私が階段を踏み外し転んでいなければ、今ごろは同じ高校の卒業生としてアルバムに載った顔写真をぱらぱらと捲り見るだけだったはずなのだ。何度も言うが、本当に人の縁は不思議だ。
「ねえ、何食べる?」
頭の中で数件の店を浮かべながら問いかける。
最近はお互いバイトや仕事が忙しかったから、こうして飲みに行くのも久しぶりだ。今日は今まで溜まった愚痴をとこっとん聞いてもらうとしよう。この前友達と行った二丁目の居酒屋か、先月二人で飲んだところも美味しかったな。
「?、マサキ?」
「いや、あー……」
珍しく歯切れの悪い返答に顔だけ振り返り様子を窺うが、普段の皮肉屋で横暴な彼はいなく少し戸惑う。飲みにいく時はほとんどマサキがお店を決める。というか彼があそこと決めたら、私がいくら違う店を出しても絶対にきかないのがいつもの私達だ。
それなのに今日のマサキは……なんだか調子が狂う。
「どうした?」
「……鍋」
「鍋?」
「肉買いすぎて賞味期限とかアレだからお前も食うの手伝え」
「うん?」
「鍋とかもあるし俺んちでいいよな」
「あ、ちょっとマサキ!」
すたすたと足早に歩いていくマサキの後ろ姿を慌てて追いかける。これは、お店じゃなくてマサキのうちで鍋つつくってことでいいんだろうか。
そういえばアパートで一人暮らしってのは聞いたことがあるが、家に上がるのは初めてかもしれない。それがなんだか気恥ずかしくて少し照れる。ストッキング伝線してなかったっけとかはこいつの部屋に上がるのに別に気にしなくてもいいような気もするが、ついなんとなく確認してしまう。うん、大丈夫そう。
履いているヒールのせいで普段より近くに見えるマサキの横顔をバレないように覗き見る。少しだけ見えた赤いその横顔に、自然と微笑んだ。