恋路に撒菱

 冷めきったオードブルの山へと手を伸ばし、自分のテーブルよりひとつ奥の更に端へと意識を向ける。四、五人で固まるグループからは時折楽しそうな笑い声が聞こえてきて、そこそこ盛り上がっていることが伺えた。
 なんだか面白くなく、先程配られたばかりの中ジョッキを勢いのままに傾ける。それを見ていた向かいの幼馴染は何かを言いかけ、だがすぐに諦めたらしい。視界の隅の呆れ顔はジョッキ中身が空になるのを黙って見ているだけ。後の面倒は見ないからなとでも言いたげに、青みがかった瞳は冷ややかな視線を放っていた。
 年の瀬の忘年会と銘打って、こうしてリーグ関係者達で集まるのは毎年の事だった。秋が終わる頃に日時と軽い出欠確認が回ってきて、その中心にいるのはだいたい決まってシズイさんかヤーコンさんだ。彼らの名前を見た時、確かにこういう催し事が好きそうだなんて妙に納得してしまった。
 さて。そんな一年の締めくくりのような宴会で、何故一人やけ酒のようにジョッキを空にしているのか。その理由は間違いなく先程意識を向けていたテーブルにあった。
 四、五人のグループ。正確には、女が二人とやけにテンションの高い男が三人の、男女のグループ。そのうちの何人かは顔を見かけた事があるような気がしないでもない。同期だったような。後輩だったかもしれない。うろ覚えだが記憶が薄いという事はそう関わりがある奴でもないのだろう。
 一見、仲のいい同期で集まって談笑しているようにしか見えないその集まり。いや、実際にそうなのだと思う。楽しそうに笑っているし。
 だけど少しだけ、なんとなく少しだけ。女の一人とそのやけにテンションの高い男の距離感が近い。それがどうにも気に入らなくて、グラスを空けるスピードを早めていた。

「気になるんなら行っておいでよ」

 隣で黙々と枝豆を剥いていたチェレンが、面倒くさそうに口を開く。
 こんな所でぐすくずしていないでさっさと割って入ればいい。あの子と男の間へ。そう言いたいのだろう。尤も、それが出来たら今頃こんな所でハイペースに飲んでいないわけで。
 俺だってそうしたいの山々だ。自分の彼女がよく分からん男と楽しげに話している、のは……まあいいと思う。知らない交友関係があるのは当然だし、別に束縛したい訳じゃない。
 ただ問題はそこじゃない。距離が近い。物理的に。近すぎる。確かに賑やかな会場だし、会話をする上で多少近くなるのも分からないでもない。だけどそれをにこにこと心穏やかに眺めていれるほど残念ながら大人ではないし、何よりだらしなく緩み切ったあの野郎の顔は余計に腹の奥底をどろどろに黒くさせた。
 どうしても気に入らない。気に入らないが、流石に嫉妬心を丸出しにするなんてこと大人がすることではないだろう。例えば、感情のままになまえとあのいけ好かない男との間へ割って入る。とか。

「……チェレン、なんか冷たくない?」
「少なくとも。やけ酒するような幼馴染を嗜めるくらいには優しいと思うけど」
 
 痛いところを的確に突いてくるのは流石というべきか。幼馴染の鋭すぎる指摘にそれ以上は何も言えず、恨めしさの含む一瞥を悪あがきのように送る。しかし、悲しいかな。ジト目の幼馴染はそんなこと一ミリも気にもしていないらしい。気にするどころか馬鹿な事を言うなと冷たく突き放されこの会話はこれでお終い。結果は俺の完全敗北で幕を下ろす。
 確かに多少の威圧感が無かったとは言わないけれど、誰に迷惑を掛けていたわけでもないというのに少し言い過ぎじゃないか。むしろ自制が効いているだけ褒めてほしいくらいだ。居心地の悪さレベルは膨れ上がる一方で、アルコールの量を増やすには十分だった。
 募り募った不満は、捌け口を求めて例のテーブルへと向かう。頬杖を付きながらしおしおのポテトをつまみ、さっさと離れないかななんて念を送る。
 この不満の圧で男の方が移動してくれたのならば、俺にとっては願ったり叶ったりなのだけど。
 
「そもそもなんで隠しているのさ」
「別に、そういうわけじゃないけど」

 長年の片思いがめでたく成就したのが半年前。別にどちらが隠しておこうと言ったわけではないが、俺たちの関係を知るのは極々一部の人間だけだった。
 大っぴらにしてしまえば、それなりに彼女へ言い寄る男の数も減るとは思う。ああしてちょっかいをかけられている彼女を前に、今のようにぐだぐだとクダを巻くことも無いだろう。
 だが曲がりなりにもイッシュのチャンピオンという立場上、公表なんてした日には当分お茶の間の顔にならざるを得ない。 そんな事になってしまえば最後。彼女はきっと、しばらくは会わない方がいいねだなんて言い出すに決まっている。簡単に想像出来るし、俺としては本意ではない。
 それに、どうせいつかはどっかのメディアが嗅ぎつけてくるのだ。その時がくるまではまだ、今はまだこのままでいい。
 もう何個目かもわからない揚げ物を皿に運ぶ。たまに振られてくる会話へそれとなく返事をする以外で、今の俺には食って飲んで、それから例のテーブルへ意識を向ける事くらいしかやることがなかった。
 向かいに座るチェレンを除き、周りには仲のいいスタッフやジムリーダーも居ない。肝心の幼馴染も、その後ろに座る同僚と何やら別の話で盛り上がっているようだ。
 いよいよ手持ち無沙汰になり、無意識のままに耳だけでなく視線も奥へと向ける。なまえと男は相変わらず近い距離で会話をしており、結局イライラは増すばかり。
 今、俺の眉間には相当濃い皺が寄っているに違いない。幸い、周りは酔っ払いしかいない。気にすることもないだろう。
 熱視線を送りすぎたのだろうか。こちらの視線に気付いたなまえは、俺と目が合うなり楽しげにしていた雰囲気を一変させる。不審げに顔を強張らせる様子がおかしくて、ほんの少しだけ頬が緩む。
 彼女の気を引きたくてひらひらと手を振ってみれば、あちらからも控えめなそれが返ってくる。嬉しそうに手を振り返してくるなまえに、俄然二人の距離をどうにかしたい気分になっていた。
 あわよくば伝わらないか。そんな考えから、声は出さずに口を動かしてみる。近すぎる、と俺。彼女は再び顔を顰める。そしてすぐに何か閃いたらしく、同じように口を動かした。
 生憎、意味はさっぱり分からなかった。思わず苦笑いを浮かべてしまうくらいには分からない。ということは、だ。俺のささやかな嫉妬心も届いていない。そういう事だ。
 そんな様子をいつからか見ていたのか、変な顔になってるよと、チェレンの辛辣が横から飛んでくる。俺以外に向けている他所行きの顔を、たまには俺に向けてくれてもいいんじゃないか。昔からこの幼馴染は少々手厳しい所がある。

「ほら。君がグズグズしているから来てくれたみたいだよ」

 そう背後を指差され、何の話だと振り返る。先程まで奥のテーブルに居たはずのなまえが、こちらも何の話?と不思議そうな顔で立っていた。
 余計なことを言ってくれるなよとチェレンを伺うが、しかし彼は、無情にも回収されず隅に集められたジョッキの数を目配せで彼女へと示す。
 
「うわ……、ちょっと飲みすぎじゃない?」

 案の定彼女からもお小言が飛んでくるわけで。沢山並んだジョッキが今ではとても恨めしい。さっさと引き上げてもらうんだった、なんていう後悔は今更だ。
 せめて話題を変えたくて、何をしにきたんだと彼女へ向き直る。
 
「え?てっきり寂しいのかと思って」

 ほら、さっき暇すぎって言ってたじゃん。先程と同じように口を動かすなまえ。いや、あれはそうじゃなくて。そう言いかけてやめた。結果として引き離すことができたんだし、もう何でもいいか。
 とりあえず座ったら?と隣を叩くと、その提案をなまえは嬉しそうな顔で受け入れた。
 追加で頼んだ飲み物とつまみが揃ったところで、彼女の方からグラスが寄せられる。オレンジと赤黒が二層になっているそれへ、握っていた自分のジョッキをコツンとぶつけてやった。

「……で?寂しかったんでしょ」
「まだ言ってんの?」

 にやにや顔で目尻を下げているなまえ。適当にはぐらかしてみたものの折れる気配は無い。
 しばらく放っておけばそのうち諦めるだろうか。意外と頑固な性格をしているから難しいかもしれない。かといって、はいそうですよと言ってしまえるほど素直な性格でも無いし、それっぽい言い訳なんて全く浮かんでこなかった。
 気の無い相槌を返していると、ふと、どこからか視線を感じ目を走らせる。誰かがこちらをじっと見ているような。敵意では無いが、俺はこの不快感を知っている。
 心当たりの方向、つまりは先程彼女が座っていた辺りへと視線を投げる。案の定と言うべきか。彼女の事を未練がましく見つめていたのは例の男だった。
 熱を籠らせた男の目がなまえだけに釘付けになっている。遠くから少し見ていてすぐに分かった。半年前まで俺が彼女へ向けていた感情に似たものが、彼の中にあるのだと。あいつはなまえに気があるのだ。
 ちらりと目線だけを隣へ戻す。当の本人はそんな事に気付きもしないで、メニュー表のデザート欄に釘付けになっていた。
 ――相変わらず鈍いな。
 真剣な横顔のすぐ近くへ、彼女の手元を覗き込むように顔を寄せる。先ほどまで眺めていた二人の距離よりずっと近い。気まぐれに彼女が振り向けば口が触れてしまうような。これは俺だけが許されている距離。
 なまえは気にする事もなく、あれとこれで迷ってるんだけどと二種類の写真を指し示す。両方頼んでシェアすればいいと促せば、今日一番の笑顔を見せ早速店員を呼び止めに行った。
 視線を再び男へ戻す。ようやく俺に気が付いたらしい。苦虫をかみ潰したように歪んだ顔を、やや強めに射抜く。
 彼女を振り向かせるのは大変だったんだ。やっとの思いで手に入れたこの場所を、そう易々と譲ってやる気は微塵も無い。
 他に一体どれだけの男達が彼女に気があるのかは知らないが、あいつだけでないことだけは確かだ。まだ見ぬ恋敵達は目につく限り払い退ける。少なくとも公にするまではそれでいいだろう。
 
「こりゃ気が抜けないな」
「何の話?」
「んー?なまえにだけは教えてやんない」

 先程の彼女がしたように、にやにやと笑いながらその問いを跳ね除ける。なまえはそれが気に入らないらしく不満げに顔を背けてしまった。
 むくれ面を覗き込むような形で彼女との距離を最大限に詰める。すっかりへそを曲げてしまった彼女のご機嫌をとる為と、諦めの悪い恋敵へと見せつける為に。
 なまえにだけ聞こえる距離で一言、寂しかったよと呟いた。機嫌を治す奥の手は思った通り効果覿面で、居心地が悪そうな顔ですっかり大人しくなってしまった。そしてそんな彼女の様子が、間違いなく男の恋心には詰みの王手となるはずで。
 ――お前の浮ついた視線になんて、一生気付かせてなるものか。
 視界の端で唖然とする彼の様子で、全て俺の目論見通りになった事が伺えた。まずは一人。
 長かった忘年会も、もう残すところわずかだ。願わくば、今日はこのまま平和に終われますように。
 最後の唐揚げを、俺は上機嫌に口の中へと放り込んだ。