たぶらかして、だめにして

 最後に会ったの、いつだっけ。
 ふと思い浮かび、カレンダーを破る手が止まった。左右に並ぶのは二ヶ月分のカレンダー。その左側の二日目の欄には、乱雑な二重線の引かれた小さな魚マークが書き込んである。付けたのはどちらも自分だ。
 先々月のこの日、私たちは三か月ぶりに会う約束をしていた。それなのにタイミング悪く私は風邪をひいてしまい、その後はお互いに予定が合わず仕舞い。結局、今日まで次の予定すら立てられずに季節がひとつ変わってしまった。
 とん、とスマホの画面を叩き、彼と交わした最後のメッセージを確認する。私のなんて事ない雑談にあちらが返してきたのは変なスタンプで、それ以降やり取りは途切れている。
 送られてきた日付を確認すれば、こちらも二週間以上前のことらしい。そんなに長く返事を返していなかった事へ、内心少しの申し訳なさを感じつつもメッセージを更に辿っていく。
 辿る。といっても、特段何か意味のある会話をしている訳ではなく、内容は些細な雑談ばかりだ。だけどそんな取り止めのないやり取りも心臓を柔く掴み、今の私をほんの少し息苦しくさせるのに十分だった。
 会えないのは仕方ない。なにしろ日本とイタリアの距離だ。遠距離にはすっかり慣れたけど、それでも寂しさを見て見ぬふりをしてきたのも事実だった。
 彼から送られたメッセージを辿れば辿るほど、しっかり締めておいた感情の栓が緩んでいくのが分かる。もう、随分と声を聞いていない。寂しいとか、会いたいとか、声が聞きたいとか。
 一度考え始めたら最後、途端に恋しくなってしまい、画面上の時計をちらりと確認する。そこから八をひき算して、おおよそあちらの時刻はお昼前くらいだろう。

「忙しいかなあ……、」

 メッセージだけにしておくか、欲張って電話をかけてみようか。普段の私なら絶対に前者を取るのだけど、残念ながら今日は少し満足出来そうになかった。
 素直に声が聞きたくてと言えたら、それで済む話。でも、生憎そんな可愛げは私にはない。
 文字を打ちかけては辞めて。それを数回繰り返しながら、あれこれ意味のない言い訳を考える。
 ――久しぶり。急にごめん、大丈夫だった?
 そんな言葉を頭の中で連ね、綱吉が出てからの会話を頭の中で組み立てる。繋がらなければ間違い電話だった事にしてしまえばいい。そう結論付けてスマホを耳に当てた。
 
「もしもし?」
「、っと……えっ?出るの早くない?」

 秒で出た。文字通りそんな早さだった。ワンコールもない速さで繋がってしまった通話に、用意していたはずの言葉は全部吹き飛んでしまう。
 なんとか返事を絞り出したものの、スピーカー越しでも綱吉の声が楽しそうに弾んでいるのが分かる。
 
「久しぶりの第一声がそれって」
「……綱吉が急にでるからじゃん!びっくりした」
「いや、びっくりしたは俺のセリフだからな。なんかあった?」
「えっ、と。なんかあった訳じゃなくて」

 完全にペースを乱され再び言葉に詰まってしまう。
 半月ぶりに聞くテノールはまるで蜂蜜のようにとろりと甘く耳を伝う。心地良くも心臓を緩く締め付けるその声に、うっかり会いたいなんて本心を口走りかけたのをなんとか飲み込んだ。
 久しぶりだからだろうか。綱吉の声がやけに優しく耳に残る。自分が思っていた以上に寂しかったのかもしれない。声を聞くだけのつもりで、それで満足するはずだったのに逆効果だった。
 取り繕うように言葉を重ねるが、電話の向こうの綱吉は声を抑えるように笑っていた。
 
「もう!笑いすぎ!なにが可笑しいのよ」
「相変わらず分かりやすいなと思って。寂しくてかけてきたんでしょ?」
 
 本当に察しがいい、というより勘がいいのか。こちらの胸中をしっかり言い当てられて、今度こそ本当に何も言えなくなってしまう。
 そんな沈黙の隙を狙うみたいに、違うのかとさらに続ける綱吉。どことなく楽しそうな様子がほんの少し腹立たしい。
 当たっているんだけど。当たっているが、素直にそうだよと言うのも恥ずかしくて。何より言ってしまったら最後、飲み込んだ言葉まで吐き出してしまいそうで嫌だった。
 やっぱり結構ギリギリだったのかも。
 柄にもなくアポなしで電話をしてしまったのも頷ける。こういう時に寂しかったよと素直に言える性格ならば、もう少し可愛げのある彼女で居られただろうか。

「つ、綱吉だって」
「俺?」
「秒で、……電話でたじゃない」

 寂しかったのはそちらの方じゃないのか。そんな意味を混ぜた言葉で風向き転換を試みるが、それすらも軽く受け流されてしまった。
 だけど先程みたいに揶揄うような軽やかさではなく、それが至極真っ当な事だとでも言うように綱吉は言葉を続ける。
 
「そりゃ、そっちから電話が来るのなんて珍しいし。出ない方がおかしいだろ」
「……、っ」
「なまえが会いたいって言うなら、今すぐにでも会いに行くけど?」

 どう?と続ける綱吉。ゆっくり言い聞かせるみたいな声色に、無意識に指先をぎゅっと握り締める。
 ――ずるい。本当にずるい。
 もう一度何か言い返そうと思っていたが、どうやら何も言葉になりそうにない。顔が熱い。電話でよかった。
 カレンダーの隅に書かれた消したはずの小さな魚マークが、妙にくっきりと目に映る。たった数分話しただけなのに、余計に会いたくなってしまった。
 
「――ずるいなあ」
「はあ?何が」
「……ううん、なんでも!大丈夫、まだ頑張れそう」

 どうにか言葉を絞り出す。だけどその声は思っていたよりもしっかりとしていて、少し自分でも驚いた。

「そっか、それは残念」
 
 綱吉が再びくすりと笑う。たったそれだけの返事なのにどこか安心したような、優しく包み込むような安心感に頬が緩んだ。

「……けど、また帰ってくる予定があったら連絡してね」
「ん。また予定見とく」

 いつでも会いに行く。綱吉がそう言ってくれたから、まだ頑張れる気がする。
 通話を終えスマホを机に置いてすぐ、ピコンという軽快な通知音が鳴り響く。控えめに光るバナーを開けば、

『やっぱり寂しかったんじゃん』

 そんな一言に、思わず苦笑いが漏れる。

『調子乗んないで。仕事頑張れ』

 最後にちからこぶの絵文字を添える。
 視線をカレンダーに戻せば、先々月は塗りつぶしてしまった魚マークに目が止まる。
 ――早く新しい暦に付けられますように。
 そう願いながら、私はそっと次のページを捲った。