劣情は沈殿する
照れた顔が見てみたい。
そんな軽い気持ちで提案した「目を逸らした方が負け」なんていう一言に、意外にもトウヤは二つ返事で乗ってきた。
せっかくやるのだからと罰ゲームをひとつ取りつけて、雑な合図と共に視線が交わること早数分。安直にふっかけた好奇心は早々に後悔へと変わり始めていた。
見慣れた瞳に甘い熱が篭もっている。ざらりと撫でるような眼差しは、まるで時間ごと縫い留めるように胸の奥を鷲掴んだ。
ほんの冗談半分のつもりだった。きっとすぐに飽きてしまうか、変な顔でこちらを笑わせてくるだろうと思っていたのだ。それなのに、――予想外にもこの勝負、トウヤは真剣に勝ちに来たらしい。
普段の快活さはすっかりなりを潜めてしまっていた。静か過ぎる様子が逆に落ち着かなくて、それが一層体の自由を奪っていく。
ゆっくりと機を伺うような、だけど簡単に終わらせる気なんて無いのだろう。底が見えないダークブラウンは私を搦めて離さなかった。
そこでようやく理解した。このむず痒さから目を逸らすことの出来ない地獄は、きっと彼が飽きるまで終わらないのだと。
まっすぐこちらを見つめる彼の瞳は、依然ぶれる気配がない。それどころか、鋭さの視線にほんの少しのとろみを仕込み、静かに距離を詰めてくる。
この頃にはゲームの事なんてもうすっかりどうでも良くなっていて、詰められた距離を取り戻すために重心を仰け反るように傾けた。
「なんで逃げんの」
「別に、」
逃げてるわけじゃなくて、ただちょっと。
身を捩りながら言葉を濁す。
「なまえが始めたんだろ。ほら、まだ逸らしたらだめだよ」
逸らしかけた視線は強引に引き戻され、物理的に距離が埋まる。優しくも甘苦いその熱が、視界を通してゆっくりと侵食していくのが分かる。
フル稼働する脈拍が悲鳴のように響き、体中の液体は全部沸騰しているんじゃないかってくらいに熱い。とてもじゃないが心臓が追いつかない。追いつかないどころか幾つあっても足りない気すらした。
堪らず肩を押し返すが、トウヤはそれが気に入らなかったらしい。呆気なく抑えられてしまった。
体を支えていた右手は一番最初に捕まった。手首までしっかりと重ねられ手のひらは、払い除けようにもビクともしない。
いよいよ身動きが取れなくなり、唯一自由の効く重心を更に傾ける。だけど仰け反ろうとすればするほど、トウヤは同じだけ追いかけてきた。
まるで逃げるなと咎めるように。だけどそれすらも楽しんでいるみたいで、必死の抵抗も焦げ茶の瞳は楽しげに見下ろすだけだ。
「逃げてもいいよ?」
なんの気まぐれか、手首に掛けられた重さがほんの少しだけ軽くなる。本気を出せばするりと抜けられてしまいそう。そんな拘束とは対象的に、トウヤの視線は私を縫い付けるように絡んで離そうとはしなかった。
――逃がす気なんてはなから無いくせに。
熱の篭った微笑みが私の思考を絡めとり選択肢を奪っていく。心臓を落ち着かせることも身を捩ることもできず、いつの間にか触れていた肩の温もりと焦げ茶色の甘い圧に抗えない。
「、っひ」
つう、と骨張った所をなぞるようにして、トウヤの指先が手の輪郭を滑る。手首の根元から順番に、甲をなぞり、人差し指へと移っていく。触れるか触れないか。そんなギリギリの距離感に思わず息を飲めば、彼は満足そうに目を細めていた。
「はは、真っ赤」
「……く、すぐったいって」
「けどなまえ、逃げないじゃん」
「それは、!……っ」
せっかく逃がしてやろうと思ったのに。耳元で響く滑らかな声が、ぴりぴりと微かな痺れを残し鼓膜に残る。
もし辞めてと言ったなら聞き入れてくれただろうか。そんなこと微塵も思っていなさそうな声色でトウヤはくすくすと肩を揺らす。私は恨めしげに見上げる事しかできなかった。
「、ぁ」
指先がゆっくりと腕を這い上がる。思わず跳ねた反応に気を良くしたのか、彼の手はそのままするりと鎖骨をなぞり、火照った頬へと伸びていく。
すっかり空気に飲まれてしまって、上手く息ができなかった。苦しくて解放されたいのに、あの熱を帯びた焦茶色から目が離せない。
指の腹が下唇を往復するように撫で、――
「あーあ。はい、お前の負け」
「……ずるい」
近付くトウヤの顔をやっとの思いで静止して、もう限界と視線を逸らす。絞り出した声は情けなく掠れて、自分のものじゃないみたいだった。
ふいに手首を押さえていた重みがするりと外れる。突然の解放に胸の奥が一瞬だけ軽くなり、思わず肩で息を吐いた。
「なに安心してんの」
離れたはずのトウヤの頭が肩口へと落ちてくる。拒む事を忘れるくらいあまりに自然で、不意に首をかすめた吐息でまた心臓が跳ねた。
耳元では甘く蕩けるような低音が鼓膜を揺らす。それはまるで遊びの延長のように。けれど確かに熱を帯びた彼の気配に、もう抗う余裕なんてどこにも残っていなかった。
「負けた方はなんでもひとつ言う事を聞く。――忘れてないよな?」
見上げた瞳が緩やかに弧を描く。慌てて顔を逸らすがもう遅かった。小さなリップ音と共に、トウヤは再び私の視線を手繰り寄せる。きつく結ばれた私の唇を何度か啄み、続けるように口を開いた。
「今度は、俺がいいって言うまで目逸らしたらダメだから」
一度沈んだものは、二度と浮かばない。私の理性もきっと同じだ。
とん、という衝撃と共に体のバランスが簡単に崩れていく。傾く視界の端で、ブラウンの瞳は満足気に笑っていた。